2023年9月15日金曜日

【心理学】 罪悪感と免罪符

 ■ 罪悪感

弟を救うのに、間に合わなかった罪悪感

 → 理解力がない人を救いたい
 → どうすればいい?
 → 思考のプロセスを見せる
 → そのために、ブログ、頑張る
 → 解説してもしても、相手の行動が改まらない

 =改まらない理由は、無知ではなく、それがカッコよいと思ってわざとやっているという承認欲求=侮辱の傷がある人だから…

 → 無知を知らせようと頑張っても、努力の意味なし…

みたいなことに、徐々に陥っていた気がしますねぇ… 

ここまで丁寧に解説しても分からんか!みたいな??

ここまで丁寧に解説してやっても、分からないなら、

 その人を救えなくても仕方ない、という免罪符

を、私は、得たのかも? 白亜スラブの件です。

■ 弟を救えなかった罪悪感ドリブンだったのかも

というのは、私の弟は24歳で早逝し、私はその前の8年間、弟に会っていなかったのです。

まさか、その若さで死ぬとは思っていないので、


 その人との時間を大切にしなかった&大切にする機会を逃した


のです。

しかし、振り返っても、現実的に、18歳~26歳までの私は、あれ以上の過ごし方はできませんでした。自分のことをなんとかするので、アップアップでした。正直、ものすごい激動の時間を過ごしており、弟のことが、家族のことが、頭をよぎることは、ほとんどなかったです。

実際、家族と言うのは、私の中で重荷と位置付けられており、今でも、家族を重んじることはあまりないくらいですから…。

■ 私にとって家族=責務=重荷。 

本来は、家族と言うのは、

 安全基地

となるべきものです。

しかし、私が相手の安全基地になるばかりで、逆に誰か、家族に限らず、つまり、クライミングパートナーですが… 心の安全基地になってくれたことはないです。

頼りになる、って意味ね。(あ、青ちゃんは頼りになりました。おかげで癒しが進みました)

家族、親、兄弟、あるいは、クラスメート、あるいは上司、など、本来あるべき、安全基地、と言うような存在が、本当に安全基地であったことが、あまりないんですよね。

それは小学生時代に、親と兄弟のヤングケアラーとして過ごしたからです。

■ 私を必要とする人を探してしまう…

楽しそうに登っているクライマー=自分を必要としていない人を見ると、じゃ、私じゃなくてもいいっか~、と思ってしまうという癖があります。

私はどこかで、自分を有能だと分かっている覚めたところがあり…、それは、親の親をしていたからだと思いますが…

  私がいないとだめな人

を探してしまう癖があります。しかし、完全に私がいないとだめだと、理性の面でアラートが立つので、ある程度は自立していてほしいと思ったりします(二律背反の葛藤)。

まぁ、人は誰でも、自分も貢献したいという思いがあるので、互いに貢献できる間柄を探すものだと思いますが。

問題は、相手に ”自分の価値が正しく伝わっていない”、ということですね。

相手は、私に

 男のメンツを立ててくれる人だー
 僕のことを正確に伝えなくても、なんとなく理解してくれる人だー
 自分の都合の良いときに、いつでもスタンバってくれる人だー
 自分が生きたいところに問答無用でついてきてくれる人だー
 僕のお母さん役をしてくれる人だー
 自分のニーズを譲っても、僕のニーズを最優先してくれる人だー

と誤解した価値を私に見出してしまうようです。

それは、私が、与えている非言語のメッセージが良くないからではないでしょうかね?自分では自覚できない部分だと思いますが

ある山岳会のリーダーに「自分でもなぜか分からないが、どうしても、つい女性に甘えてしまう」と言われたことがあります。自分の無謀なクライミングのことを自身でも自覚されていたみたいな感じですね。

私からすれば、クライミング歴が圧倒的に私のほうが短いのに、その私に依頼心を持たれてもなぁという感じでした。

私は自分でも、自分の能力を的確に把握しているほうだと思いますが、それを相手は、頼りになるお母さんと言うような捉え方…甘えても良い人、と勘違いするようです。

それは相手方の認知のゆがみなので、私の側では何ともしようがないのかもしれませんが、そこらへんはどうなのか?プロに聞いてみたいですね。

■ 繰り返し

  自分の成長にマイナスになる人を近づけてしまう…

という行動パターンは、私の人生に繰り返し現れているような気がします。

人生にはアップダウンがありますが、ダウンの時に気にかけてくれたクライマーが亡くなったと知り、だいぶショック。

私を大切にしてくれない人ばかりに時間をかけてしまう習慣は本当に治さないと、友人になってくれようとしていた良い人たちを遠ざけてしまう…

このことは本当に心に刻んでおかないといけない。

二度と失敗をしないようにしないといけない。

と思っています。

■ ホワイトピープル事例

例えば、クラックを習いに行った、故・吉田和正さんとの時間は、信じられないほどの短期間で終わりました。享年53歳、悪性リンパ腫での死でした。

当時を振り返ると、吉田スクールの日に、他のパートナーからクライミングの誘いが入ったりして、かなりバッティングが激しかったんですよね。

そして、山岳総合センターで私の班の講師をしてくださった村上先生の死。先生には何度か、九州で講習会を開いてもらう交渉をしていました。でも、私に集客力、知り合いがいなかったんですよね… それで延び延びになっている間に亡くなってしまいました

そして、今回、ラオスでご一緒したいと思っていた、萩原さんの死に出会い、本当に、この人たちとの出会いを大事に出来なかったことに、残念な思いを感じています。ご冥福、心より祈っています。生前にお会いしたかったです。

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【萩原豊】
訃報。俺たちTeamムーンフラワーの隊長で世界中をクライミングしながら旅していたクライマーが今朝、ご家族に見守られて永眠されました。
先輩の奥様が、「ハギさんに「ありがとう」って言いたい人いっぱいいるよね。」
っておっしゃっていたので、美智子さんや海外滞在中の先輩に代わって、世界中にいるハギさんの仲間のみなさんに届けばいいなぁ、と思って報告します。
ハギさんと一緒に旅して来た奥様・美智子さんは、最後の最後までハギさんを支えて、お二人の貴重な時間を大切に過ごされていました。
ハギさんのメッセンジャーに、ぜひメッセージ残してあげてください。絶対喜ぶと思います。
「ハギさん,ありがとう。。。」 合掌
Mr. Yutaka Hagiwara passed away this morning. I think it hurt, but he was spending time at home with Mrs.Michiko and his family till last moment.
I want you to send message to Mr.Yutaka on the messenger. I think he will be pleased.
Rest In Peace and thanks,Hagi san.
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■ なぜ悪いほうとつながってしまうのか?

悪いほうと言うと、言葉がまずいかもしれませんが、その意図するところは、

 危険なクライマー、無謀な行為をそうと認知せず、粋がって登ってしまうクライマー

と言う意味です。

 危険なことを危険と分かっていない → 教えなきゃ! 

と私のスイッチが入ってしまうんですね。 そこが他人事化できていない。

かなり、母親側に近い姉スイッチが入り、「私が守ってやらなくては!」となりそうになります。これは間違った認知です。

正しい行動は、「はぁ~?何やってんの?ばっかじゃないのー」と切り捨てること、です。

実際、子供のころは、弟に対して、そうしていたんでした…。

弟が早逝したことで、私の中に、強烈な罪悪感…後悔まじりのもの…が、作られたことには、間違いありません。

それが私の人生において、スカートのすそを踏んづけている原因のように思います。

■ 自己顕示欲を捨てる

そもそも、

 自己顕示欲の手段としてクライミングを使いたい人

とつながってしまうのは、

 自分の中にも自己顕示欲があるから

なのかもしれません?

さて、だと仮定したら、私はクライミングで何を示したいのでしょう?

自己顕示欲としてクライミングを使っている人にあるのは、侮辱の傷、です。お前はダメな奴だ、と侮辱されたことがあるはずです。

だから、頭ではイケイケクライミングは死へ続く道とわかっていても、それがやめられないのではないかと思います。中には本気で、分かっていない人もいることは分かりましたが。その場合は、自分の価値を、無謀さ=男らしさ、と勘違いしているようだと思いました。

■ クライミングは、きちんとリスク管理したら、大抵の事故は防げます

クライミングは、確かに、リスクを内包するものなのですが… 

本来は、習い始めに、そのリスクを最小化する方法を教わります。(例:懸垂下降)

抽象的な言い方になりますが…

   自分自身の ”自信” にのみ、従って登る、

ということです。これは、山も、クライミング、も変わりありません。例えば、懸垂下降を技術として知らなくて、敗退ができなかったら、自信をもって山に挑めませんよね?

■ 自分で自分を理解できない…という愚かな質問

山で、よく愚かな登山者が山小屋の主に尋ねることは、

 「私にも登れるでしょうか?」

です。そんなの、他人が分かるでしょうかね?? そこを分かるようにしていくのが、登山であり、クライミングなのに…。

とはいえ、自分で考えられない人のために言えば、平坦で3時間で登れる山から徐々にサイズを大きくしていけば、自分がどこを登れるのか、自分自身で判断が付くようになります。

そうやって、自分で、自分に自信の根拠をつけていく活動が、登山であり、クライミングです。

■ 人生の歩み方

これは、人生の歩み方につながっています。

例えば、私の母は、15歳で私が海外の交換留学に行きたがった時、心配のために、行かせてくれませんでした。

しかし、その心配は根拠がなく、当人のほうは、自信たっぷりだったわけです(笑)。別に一人で行ける、と思っていました。それで、それを20歳で実行しました。なんせ、普通の人は親に出してもらっていく、大学すら一人で行きました(笑)。

この現象…周囲があなたにはできないというが、本人はできるという確信がある…は、私が積雪期の山を登っていた時代に、再演現象が起こりました。

ストローハットと言う山道具屋のおじさんには、散々「女性が一人で山に行くなんて危険だ」とか、「積雪期権現なんて100年早い」とか、いろいろ言われました…。私自身が無謀登山者扱いされていたのです(笑)。しかし、私は確実に体力とともに、自信を積み上げていました。間違っていたのはおじさんで、私はそれを証明する義務があるように感じさせられていました…。

実際は、積雪期の登山は、一般的に入門ルートである、積雪期の阿弥陀北稜を、初見&単独で実践しても、何の困難もなく、楽勝であるほどのことだったのです。

余談ですが、積雪期の八ヶ岳・権現は、登頂まで、7回もかかりました。規模的に権現のほうが阿弥陀北稜より大きいからです。阿弥陀北稜は小さい山です。それでも、きちんとしたステップを踏まないでチャレンジすることで、遭難者を多く出しています。山は個別で、どこそこが行けたという内容をきちんとかみ砕かないと、別の○○に行けるという意味にはならないです。

現在日本の登山では、遭難者を多く出しているのは、きちんとしたステップを踏まないで、山のレベルだけを上げていくという悪習慣が、登山界およびクライミング界に、はびこっているため、です。別名グレード主義と言います。この話も別の流れになるので、今回は割愛します。

つまり、人生も同じということが言いたいことです。

基本的に、

 周囲の意見はなく、

 自分の実感(別名、自信)

を大事にして、それを育てていくことで、大きな成果が得られるということです。

そして、自分の身に起こりそうな、厄災、については、事前にシミュレーションしてリスクオフしていく、ということです。

クライミングにおいては、それは、登りに行く前に懸垂下降を知ること。マルチに行きたいなら、マルチでどんな厄災…が起こりそうか?自分でシミュレーションするっていうことです。たとえば、ロープが上がらない場合、どうしますか?

その場合の対処方法を知らないのであれば、セカンドでもマルチには行けませんよね?

そういう事前のシミュレーションなしに、リスクオフせずに行く…ということが、
 
 無謀なクライミング

の正体です。

これは、大きな会を率いている年配の人でも、若い人にきちんと伝える力がある人はいません。私の師匠であった青ちゃんでも、です。その計算こそが、クライマーの伝家の宝刀、だからです。よほどの人にしか、教えないと思います。

■ 自分で考えれば誰でもわかる

でも、ぶっちゃけ、自分で考える人にはすぐにわかることです。

マルチでロープアップされない、自分のミスでロープが上がらない場合にどうすればいいか分からない、ということには無関心なのに、今日の宿が見つからないことには焦る、フェリーを乗り逃しそうだから、本気ダッシュする、というのは、全く本末転倒です。

 ぶっちゃけ、どっちに命がかかりますか? 

クライマーっていうのは今日の宿がないならその辺で野宿しても構わないものなんですよ。全然リスクじゃない。フェリーを乗り逃したなら、明日乗ればいいでしょう。

きちんと論理的にクライミングを事前シミュレーションするだけの思考力がないことは、クライミングにおいて致命的な欠陥です。

■ そういう人を助けたい

と思ってしまうのが、私の思考の癖であり、自分自身を行き詰らせてしまう、悪癖です。

私はこれは確実に治したいと思っています。

■ まとめ

少々とっ散らかってしまったのでまとめます。

・24歳で弟は死に、私だけ生き残った罪悪感から、無謀クライマーを放置できない
・同じ罪悪感から、救えない人を救おうとしてしまう
・救えないことを確認し、救えなくても私の性ではないという免罪符を得ようとしてしまう
・そのことが人生の無駄な時間になっている
・心の安全基地がないほうを選んでしまう
・私がいないとだめだ、と思わせられる人を選んでしまう
・私に母親役を求める人を選んでしまう

本当に私がクライミングで伝えたいことは…?

 ・きちんとリスクを因数分解し、それを一つ一つつぶしていくことができれば、クライミングは、無謀ではなく、危険もさほどではなく、岩との対話を楽しむ、安価で健康的な生涯スポーツとなりえ、この行動パターンは生きていく指針となる、自分自身に自信の源泉を求める行動パターンである







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