2024年1月26日金曜日

【水泳】別のフレームワークでとらえる

 ■ 突然、クロールでブレークスルー中

私は、4泳法の中で、普通の人にとっては、最も難しいバタフライが得意で、誰でも泳げるクロールができない…という… 

クライミングの中で、一般クライマーにとっては高嶺の花で登る機会のないアイスが得意で、誰でも登れる人工壁が一番苦手という…

まぁ、似たような状況に陥っています。

しかし、ある先生の教え方で、突然のブレークスルーが来た…。

■ まず浮く そして、推進力を得る

水泳で最も重要な基礎技術は、浮くことです…。

そんなこと、当たり前ですが、子供を教えるときには、誰もそんなことを言わない。竹刀で打って脅して泳がせるという教育法でした。

九州のクライミングの教え方も、ランナウトの恐怖におびえつつ登る、絶対に落ちてはいけないと思って登る、と同じ教え方になっていますよね…

これって、九州の伝統なのかもしれません。教育法としては最も非効率的だと思う。

■ 1回目のブレークスルー 頭とお尻

ふし浮きで、お尻が浮く、という状態を作れるようになってから、急速に泳げるようになりました。

頭が下でお尻が上なんですよ。 これはドルフィンキックの、いるかというドリルで、重心を覚えました。

そもそも溺れる恐怖があったので、頭を下にしても溺れないという、事実確認が必要な感じでした。

■ 2回目のブレークスルー 手で水をつかむ

クロールで、プルを先生に教わりましたが、ほとんど、バタフライのプルと同じで、胸の横に腕が来たら自ら抜いてしまうというエクササイズでした…。

そこで、ほとんどの推進力がプルにあることが分かった。

水をつかむ感触

が捉えられました。

■ 3回目のブレークスルー 足で水をつかむ

今回のブレークスルーは、足で、水をつかむこと。キックです。

ふし浮きで、沈んでくるタイミングでキックを入れると、浮きます。それを行う。

足の役割は、

・バランス

・浮く

・推進力

の3つなので、バランスを崩したときにバランスを整える、浮かなくなった時に浮く、キックして前に進む、の3種を意識してやります。

バランスと浮くの2つは、すぐにできるようになったのですが、キックは一向に進まない日々が3日続きました。ほんと、上から見ている人が見たら、まぁ気の毒なほど進んでいなかったと思いますが…。

広々としたプールに人がいない日に行く、というのが上達の決め手かなぁ… 

3日目で、ついに、前進する推力を得る方法が分かりました。

■ 推力を得るには、足幅を開く

キックは、内またにして、プロペラのように、足の甲を使いますが、足の幅を広げないとつま先同士がぶつかるので、内またにできないのです。

そのことに気が付くまでに3日かかった(笑)。

足幅を広げたら、できました。 ので、まぁ、何ができない原因なのか?は人それぞれなのかもしれませんね。

大事なことは、自分で気が付く=自己信頼感、セルフエフィカシーです。

この足幅を広げる、ということで、クロールの軸は、2軸で、難波歩きのパターンだと分かりました。

なので、当然、入水の腕の位置も、幅がいります。正中線にクロスしてはダメです。

以上で、ここ1日程度で、クロールはかなり泳げるようになりました。スピードは最初から十分なので、あとは、ゆっくり泳ぐために

 ・2ビートと

 ・息継ぎの安定化

を覚えないといけないです。

■ 今回得た、思考のブレークスルー フレームワークを使い分ける

https://www.youtube.com/watch?v=w1d0W9XhlMk&ab_channel=%E9%95%B7%E5%B1%85%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB より引用


捉え方に個人差が生じる…


長く教えていると、同じ言葉を使っても、別の意味に捉える、ということが問題になると、スポーツを教えていたとしても、気が付くので、

 個人のとらえ方問題

は大きい。この先生は、2軸か1軸か?という二項対立にとらわれるとそのとらわれに時間がかかってしまいそうです。なので、効率的な学習や習得につながらない。それを辞めて、

 体重移動

という第三の解で教えることにしているそうです。たしかに、私も、ふし浮きで、クロールの重心位置を覚えたことがブレークスルー。

■ 体系化されたものの、体系を理解する(=過去の成功体験が自信の根拠にもなり、足かせにもなる)

バレエを理解したときに、ワガノワ派の理論体系を理解したことが、カルチャーショックでした。

3年目くらいで、すべてを理解したかなぁ… その後は、習得はリラックスしてできて、習熟ステージに進むことができた。その後、私の関心は身体感覚をつかむことに向かい、いわゆる”バレエの上達”とは無関係に、バレエの専門用語でいう、

 「”引き上げ”が一体何なのか?」

に向かいました。

この方向性は、おおむね指導者には非常に受けが良く、海外にレッスンを受けても、即座にクラスに受け入れられました。先生たちは、バレエの神髄をとらえようとしている人は誰でも歓迎なのです。見かけ上のダンスには惑わされないです。

英語では、引き上げは、エレベーションです。丹田に力を入れろ、という日本武道と同じ意味です。

西洋では、丹田と言わず、エレベーション。力を入れる場所ではなく、力を入れた結果、上がった場所に視点があります。

ちなみに同じことを、ヨガでは、クンダリーニエネルギーと言います。

丹田が抜けると、運動系の活動は、すべて、なんか魂の入らない動きになる。

■ 水泳では?

水泳も、ちゃんと浮けば、つまり、正しい重心(頭が下がって腰が浮く)をとらえれば、丹田以外のすべての力を抜くことになるんですが…。つまり、同じことを言っている。

そこが統合できると、なんかスッキリして、ユーレカ!が私の場合は起きますが、最初に、既存の概念…に固執すると、このユーレカ!が起こる時期が遅くなると思います。

例えば、ヨガを習うときにバレエの概念を対照として使うのを最初は辞めるほうが、習得は早いです… ので、とりあえず、その体系を受け入れることが大事だと思う。まぁ、あとで、ヨガで言う◎◎はバレエの××だなぁと気が付いたりします。

■ アナロジーに含まれる無意識の前提

登山やクライミングは、頂点に立つというアナロジーから、人生スキルに転用されることが多いです。

しかし、そのアナロジーが前提にしているのが、頂点です。つまり、頂点というのは、一つしかない。

たぶん、そこが間違っているので、みな人生を間違ってしまうのです。登山の活動から学ぶべき、もっとも重要なアナロジーは別にあります。

登山では、登り10何時間とくるしんでも、ピークに立っているのは、せいぜい20分です。ご褒美はちょっと。その後、登りより難しい下りが待っています。そして、ピークに立つ喜びの量は、いかに登りで苦しんだか?に拠るのです。歩いて登れば、感動ひとしおだけど、ロープウェーで登れば、何もありがたくない。

つまり、プロセスのほう、さらにいえば、プロセスの渦中で苦しみをじっくり味わうことが、喜びを大きくするのです。さらに言えば、苦しみそのものが人生そのもの…です。

だから苦しくなったら、ほんとにちゃんと登山を味わっているなぁ(=人生を味わってるなぁ)を思えば、よろしいのです。

登山におけるピークって、ほんとに何十時間と言う時間をかける山でも、20分いてせいぜいだし、しかも、下りのほうが登りより大変と来ているので、全く意味をなさないものです。

降りるプロセスが難しい…というアナロジーで言えば、大変な時期を良く過ごすほうが難しい。サレンダーのほうが難しい…手放しのほうが難しい…ということが言えます。

成長期を成長して過ごすのはたやすく、老化進行期に老化を遅らせて過ごすほうが難しい…ということです。

老化する体を受け入れることが難しい、と言う風に言えるかもしれません。老化に寄り添うというか、衰えに寄り添うというか…。

■ 捉え方の個人差


さて、私のカウンセラーと言うか、ヨガにかぎらず、指導者としての課題、ですが


 捉え方に個人差が生じる


をしばらくテーマにして過ごそう…と思います。

軸というフレームワークで考えれば、クロールは二軸でしたけど、軸というフレームでとらえずに、

 重心というフレーム

でとらえるほうが、とらえやすい、というのはその通りだと思います。

なんせ、浮く、って水泳の基礎技術の中で最大に重要だと思います。

クライミングも、何か捉え方にコツがある世界であるように思いますが、私には、

 指力強化

の世界観はどうしても合わないんですよねぇ…。自分の指を犠牲に差し出すくらいなら、クライミングそのものを辞めて構わないとすら思います。

大事なことは、冒険の精神、で、未知の領域に対する開放性、オープンネスだと私は思っているんですよね。

日本人って、やったことがないことに対して開放性が非常に小さい。前例前例って言っています。だから、アルパインのルートも、

 「先輩に連れて行ってもらう。そしてそこを復習で後輩を連れていく」

が常套手段になっていて、それでは、

 未知のルートに対する不安(およびリスク)に対処する能力

はつかない。師匠の青ちゃんは、たぶん読図で初めて行く山を未知の状態で登るということは、精神面でルーティンから外れるため怖くてできない、と言うタイプのようでした…

ので、昔の山やさんは、伝統、ということで、先輩から、特定の山域に案内してもらい、それを後輩に伝える、という役目であったのかもしれません。

しかし、真の冒険は、伝統の先にあり、それは、

 未知のルート

ですよ。なので、どんなに小さくてしょぼくても、未知のルートに行くほうが、40mランナウトを登る、より偉大です。

小さいステップで

 未知に出来事に対する心理的耐性

を上げていかないと、どんなに山が大きく、高度になっても、未知の場に行くことに恐怖が抜けず、チャレンジができない体質になってしまいます。

ちなみに私がラオスと台湾に現在そそられていないのは、未知、がどこにもないからです。

他の場所も私のクライミングとのきずな、が確認できないので、どうも興味をそそられないです。私は絆で登ってるクライマーなので。

つまり、それは、クライミングと言う山が終わりを告げているということかもしれず、それならそれでいいかなぁ、と思っています。

なぜなら、人生と言う山を登るのに、クライミングが役立つから登るだけで、クライミングのためには死んでもいい、とは私には全く考えられないからです。

人生で大事なことは、

 人類になんらかの貢献をもたらすこと

で、金でも名誉でもなく、ましてや、犬死、ではないですから…。私の命をアホクライマーに捧げそうになってしまいましたけど…。まさかそこまで分かっていない人だとは、私の常識や前提の範囲では思いもよらなかったですよね…。そこまで愚かな人が存在する、と言う認知が働いていなかった。

そもそも、私を前に押しやる駆動エネルギーは、”探究”であり、競争、では全くありません。

私の登山の記録を見れば、人気の山や高い山に登ろうとした記録はほとんどなく、川俣尾根だの、中津森、だの黒富士、だの、ほとんど誰も知らないような山ばかりです。

クライミングでも同じで、昇仙峡とか、湯川で頑張っており、誰もが知っている有名ルートを落とせた!だからうれしい、とか全くないんですよ…。

ほとんど人が知らないルートを登って満足なのは、

スキル志向&探究志向であり、

他者からの承認志向ではない

からです。






0 件のコメント:

コメントを投稿